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僕達が出したセレクションは 曖昧なOver pains day

アイドルは実在しない

アイドルは実在しないと思っている。

物理的に、実体的には存在はしているが、世間が周知する通りの「アイドル」という人は実在しないのだと思う。
村上くんで例えるならば、村上信五という人間は実際に日本のどこかに籍や住民票がある(よね?)、れっきとした35年以上生きている人間として存在している。でも、私が日々崇め心の支えにしているアイドル村上信五は、私の目に映り私の思い描く村上くんは、実在する一人の人間村上信五さんと同一であるとは言えないと思っている。
この2つが乖離していることは至極当然だと思うし、その差が本人にとって苦痛でないならば、ある程度分かれているべきだとも思う。

前者をプライベート、後者をパブリックイメージ、と呼ぶとしても、本人がパブリック部分の一部として活用しない限り、本人(とその近しい人々)以外はプライベートを知り得ないし、知る必要もないと思う。タレントならば、プライベートは切り売った瞬間それはプライベートではなくなるとも思う。〇〇に行ってきました〜!と、後日テレビなどで報告したものとか。これは、プライベートの一部を、パブリックなキャラのエピソードの一つとして活用しているからである。

プライベートのキャラクターとパブリックのキャラクターが一致しなくても、全然良いと思う。本人がそのギャップで辛くなければ。そして、パブリックのキャラクターをきちんと商品化してくれるならば。

私はいちオタクいち消費者だから、その商品化されている部分のみ対価を払って受け取り、鑑賞し、堪能している。だから、私は商品のパッケージされている部分以外には意見する筋合いはないと認識しているし、アイドルには、商品としている部分はもっと磨き商品価値を上げてほしいと願っている。今後はさらに良いものになってほしいから、商品価値を下げるような真似は頼むからして欲しくない。

商品であるアイドルは、誰かしらの、まあ事務所であるとかレコード会社、コンサートならば演出や舞台装置、はたまたテレビや雑誌などのメディアや私達オタクなどの、膨大な数の人々の思惑や意図や夢や願望で男の子を着飾らせているからこそアイドルなのだし、その時点で、彼らはアイドルという商品を演じる役者である。
アイドルは一生本人が本人役を演じきるもののように見える。ドラマの本人役というのも、本人が本当に自由に喋っているものじゃなくて、「本人が素のままに喋っているように見える」台本だし。

彼らはアイドルだから、オタクである私は何かしらのバイアス(トーク台本だとか、トーク部分の映像編集だとか、インタビューの編集、フォトショップ修正だとか)のかかったメディア越しに彼らを見るしかなく、見えたものもレンズ越しの虚像かもしれない。
それなら、最初から私が夢見て追っているアイドルは虚像であると考えた方がよっぽど気が楽だ。姿形を演じる実体の役者はいるけど、私が思い描くままのキャラクターのアイドルはメディアの中にしか存在しないし、下手すると私の中にしか存在しないのかもしれない。