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ThinkLog

僕達が出したセレクションは 曖昧なOver pains day

「ジャニヲタ文芸部(仮)」に参加した件【第0回「担当」】

この度は、上記の記事を偶然目に致しまして、折角ですからこの機会に、私の中で日々渦巻いているものを文という形に収めてしまおうと思いついた次第です。

「担当」

 私はジャニーズに興味を持ち始めた当初、「担当」という言葉を使うことに対して、少なからず抵抗がありました。私自身がジャニーズアイドルの魅力に初めて目を奪われたタイミングが、周りの一般的な女の子たちとは随分と時差があったからです。喩えがあまりよろしくはありませんが、私はまさに「遅咲きの狂い咲き」という言葉のままなのです。「いい歳して今更ジャニーズの男の子たちに『担当』などとほざいていて良いのだろうか」、と不安に思っておりました。また、この世界に手を出してすぐの頃は、まさかここまで首ったけになるなど想像もつかなかったのです。そのような「どれくらいハマれるか分からない、好きになれる分だけ好きになろう」と考えていた当時の私にとって、「担当」という言葉はあまりにも荷が重く敷居も高い、まだまだ遠い世界の単語だったのです。

 そもそも「担当」という単語は、皆様ご承知のように、ジャニオタ特有の用語です。勿論「担当」という概念が他界隈に存在しないわけではありません。一般的な表現に則れば「〜(の)ファン」、女性アイドルの方面に行けば「推し」でしょう。更に近年はこの「担当」「推し」というアイドルオタクの世界の専門用語が、そのままアニメオタク界隈にも流用されています。世間的には、ほぼ同意語としてこの2単語が用いられておりますが、やはりこの2語の間には、相容れないニュアンスの違いがあると思うのです。

 この2語の、単語としてのそもそもの意味を調べてみると、『担当』は「受け持つこと、引き受けること」、『推す(推し)』は「事物を上・先へ進めるように他から力を入れる、すすめる、推薦する」とあります(共に 広辞苑 第6版 より)。つまり「担当」というのは「そのアイドルの活動を応援すること・その人を愛することを『受け持つ』こと」、「推し」というのは「そのアイドルの魅力を他人に『すすめる』こと」と解釈することができます。このように噛み砕いてみると、この2語は似て非なるものとして捉えることができます。「担当」はアイドルに関すること全てを引き受ける『受動的』な意味であることに対し、「推し」は他に自分が良いと思うアイドルを推薦する『能動的』な意味なのです。この違いが、「担当」という言葉に対して感じていた、ハードルの高さの要因の1つであったのかもしれません。「担当」という言葉の方が、より専門性を強く感じるのです。

 しかし、実際ジャニオタの世界に両足を突っ込み、腹が膨れて浮かび上がることができなくなるほどその沼の水を飲んだ時、初めてようやくこの「担当」という言葉の持つ重量に納得することができたのです。確かにこの感覚は、まさに彼のファンを「担当」していたのです。彼の活躍、彼の頑張り、彼の夢を受け取り、愛し、応援することを「担当」していたのです。アイドルへ注がれるオタクの視線は、どれほどの光量のスポットライトよりも強靭で、的確だったのです。ステージ上のどこにいても、画面上のどこにいても、無意識のうちに彼の姿を目で追っていたのです。オタクの中では、自担は常に世界の真ん中でありセンターです。誰が何と言おうと、実際の立ち位置が後ろの隅っこだろうと、歌パートがほとんどなくても、自担がNo.1なのです。なぜならば、自担を中心に世界が回っているように錯覚しているからです。

 このような視界が悪くなる魔法が掛かっていると、他の視点からの意見が非常に新鮮に感じられるのです。同じものを見ていても、担当が違うと見えている景色というのもまるっきり違っているようなのです。村上担の私と丸山担の妹でレコメンを聞いても、後で感想を話すと覚えているポイントが食い違っていることがあります。それは、私は村上さんが話したこと・やったことを中心に覚えているのに対し、妹は丸山さんを中心に覚えているからです。「あれ、そんなこと話してたっけ?」「いやいや、こういうのしてたじゃん」ということになるのです。同じことは勿論ラジオだけでなく、TVやMVを見ていても起こります。また、Twitter上で他担のフォロワーさんの呟きを見て、「あぁ、ここはこうなっていたんだ」と、自分では気付くことができなかったことに気付くことができたりするのです。

 ジャニーズにハマり始めた頃は、まさかここまで、他に何も残らない程心奪われてしまうとは思っていなかったのです。沼に嵌るときのあの「堕ちる」感覚というのは、何度味わっても飽きることなどない快感なのです。あの、鋭い稲妻で、光の如く一瞬で胸を貫かれる、この何にも替えられない快感。衝撃が胸に突き刺さった瞬間の多幸感と満足感と、それと同時に湧き起こる、更なる萌えを求める渇望感。勿論これが、いつどこで起こるのかなど誰にも分からないのです。恐ろしいことに自分自身でも把握することも予測することもままならない。コンサートで目にして、というのも当然あるでしょうし、TV、映像作品、はたまた雑誌などの静止画で、ということも大いにあるでしょう。厄介なことに、その人の担当になった瞬間だけでなく、ハマってしまってからも、充分堕ちてしまってからも、何度でもこの衝撃は繰り返すのです。魅せられてしまった私たちは、どんな甘味よりも蕩けるように甘く、この世の何よりも刺激的な男たちに、日々中毒を起こし、依存していくしかないのです。そして更なる快感を得るために彼らにお金を掛け、自らの手でますます自分を元の自分に戻れないようにしているのです。傍から見れば、私たちは立派な廃人なのかもしれません。それでも一度手を出してしまった私たちは、この欲望が収まってしまうまで、一生彼らを摂取し続け自らを満たしていくしかないのです。